創作しろぶろvol.1「キサンとピタヲ、ときどき孝一郎」

雪が降るたびに思い出す出来事がある。

新人役者だった僕は、初めての通し稽古を経て大きな挫折を味わっていた。自分の演技のすべてが空虚だった。自分の演技を客観的に見たことで、それまで上手くいっているように見えていたものが全て幻想だったと気付いてしまった。
通しの翌日は休みだったが、その次の日からはまた稽古が始まる。
あの日は、体を包む空気すべてが氷のように感じられるような、そんな厳しい寒さの日だった。5限の授業を受けてなんとかサカンに行ったまでは良かったものの、活動が始まるまでの時間が本当に辛かった。僕はみんなと顔を合わせるのが嫌で、部屋の隅でうずくまって時計の針が18時半を指すのをじっと待った。稽古が始まれば気分もついてくるのではないかと期待していたのだが、そう上手くはいかなかった。
よほどひどい有様だったのだろう。稽古中、ピタヲさんが、「きさん、大丈夫か?」と聞いてきた。いけない、と思った。彼は脚本演出、公演トップだ。彼は僕とは比べ物にならないほどの責任と重圧をその背中に背負っている。僕はせめてその仕事を増やすようなことだけは避けなくてはいけない。僕は「何がですか?」と笑って誤魔化した。
そう、稽古場の空気を壊してはいけない。誰もがこの公演を成功させるために多大な時間を犠牲にしながら全力で動いていた。誰一人として弱音を吐きはしない。
終わりのスタ会は空元気を出してやり過ごした。ほかの役者たちはみんなで家家家に行くようだったが、そこまでの余力はなく、お金がないからと言って断ってしまった。
そそくさと逃げるようにしてサカンの外に出ると、雪が降っていた。大粒の雪が、ゆっくりとゆっくりと降り落ちる。時間の流れが遅くなったみたいだ、と空を見上げながら絵空事を考えては、そんなわけはないかとひとりごつ。ぼんやりと雪の落ちてくるようすを眺めていると、その雪のなかに一際大きな雪塊があることに気が付いた。ひらりひらりと翻りながら落ちてくる。不思議な動きだ。僕にはそれが雪の精が踊りを踊っているかのように見え、その美しい雪塊の落下を追いかけて僕は視線を落とした。

――目の前に、ピタヲさんがいた。

頭には雪が積もっていた。
「あれ、ピタヲさん、雪まみれですよ。雪だるまかと思いました」
「それはお互い様な」
僕は自分の頭を触って、自分が随分と長くここに突っ立っていたのだということに気がついた。
「家家家は?」
「今日はいいんだ」
「いいんですか? 脚本演出が行かなくて」
僕は笑いながらそう言ったのだが、ピタヲさんは真面目な顔をして、こちらをじっと見つめながらこう言った。
「きさん、孝一郎行くぞ」

――

「学生コウジロウ、麺は400。全マシマシ」
ピタヲさんが流れるように注文したのに続け、僕も注文しようとしたのだが、
「こいつも学生コウジロウ、お好みも一緒ね」
とピタヲさんに言われてしまった。
「麺400なんて食べたことないですよ、しかも全マシマシだなんて」
「……食え」
そう言ってから、ラーメンを待つ間、ピタヲさんはずっと無言だった。僕は今日の件でピタヲさんから説教があってもおかしくないと思っていたのだが、どうして何も言わないのだろう。もしかすると言葉が出ないほどに怒っているのだろうか。どう謝っていいのかわからず、僕も言葉を発することができなかった。
しばらくしてコウジロウが出てきた。とにかく食べるしかない。山のように盛られたモヤシ、改めて凄まじい量だ。強烈な匂いを発するニンニク、とてつもなく味の濃いスープ、ワシワシとした力強い食感を生み出す極太麺。背脂は、油が胃袋全体を覆ってしまうのが感じられるほどだった。不健康の極みではあるが、しかし究極に美味い。全国に二郎系ラーメン数あれといえども、僕はこれほどまでに美味い二郎をここ以外に知らない。
ピタヲさんは随分早く麺を啜った。僕が半分ほど食べ終えたところでもうスープまで飲み干しているようだった。そして、何を思ったのか、コウジロウを食べ終えたピタヲさんは何も言わずに店の外に出ていってしまった。
こんなピタヲさんは本当に初めてだ。どういうことなのだろう、待ちきれずに先に帰ってしまったのかな……。落ち込みかけたそのとき、ピタヲさんは再び店に入ってきた。そしてピタヲさんはさっき立ったばかりの席に戻ってきて、こう言うのだった。

「学生コウジロウ、麺400。全マシマシ」

耳を疑った。そんなことがあり得るのだろうか。
「正気ですか」
そう問いかけてもピタヲさんは相変わらず黙りこくったままだった。ピタヲさんが無言のままなので、僕もコウジロウを食べ進めるしかない。
ピタヲさんは苦しそうだった。何度も何度も箸を持つ手を止め虚空を眺めて小休止しては、何かに取り憑かれたかのようにまた麺をすすり始めるのだった。麺をすするピタヲさんの気迫には鬼気迫るものがあった。感動的だった。僕はその様子を見て、学んだ。何かを学んだ。何を学んだのかは、当時の僕には分からなかったが、しかし分からなくてよかった。それで十分だった。
僕はコウジロウを一心不乱に食べた。ピタヲさんと僕の麺をすする音が店内に響き渡る。その響きはハーモニーを奏で、フーガを構成し、ディベルティメントとなっていった。会話などいらなかった。あの時、僕とピタヲさんは完全に通じ合っていた。美しい時間だった。
帰り道、僕は既に何に悩んでいたのかを忘れてしまっていた。翌日からの稽古は、覆っていたもやがすべて晴れてしまったかのように全てが上手くいった。

――

あれから15年が経った。僕はもう札幌にいない。冬になってもほとんど雪の降らない街に僕は今住んでいる。それでも年に1度くらいはやっぱり雪が積もって、あの純白の街で過ごした日々のことが恋しくなる。
今年の雪は例年にない大雪だった。窓辺で子供たちが雪だるまを作っているのを見て、ふと、しろのみんなは今頃どうしてるかなと妙に心が揺さぶられた。そのときだった。上司から電話が来て僕は札幌への出張を告げられたのだった。

――

何年ぶりの札幌だろうか、街に繰り出すと冷たく湿った空気が僕の身にまとわりついた。雪が積もっていて歩きづらい。変わらないもの・変わりゆくもの、目に映る全てのものが僕の郷愁を刺激した。
行きたいところ、会いたい人はたくさんいたが、時間も限られている。出張の用事が立て込んでいて寄り道をするのはかなり厳しかった。しかし僕には無理をしてでも行かなければならないところがあった。

「おー!きさんじゃないか。」
その呼び名が、本当に懐かしかった。
「コウジロウの大、全マシマシで。元気でしたか、ピタヲさん。」
僕がそう言うと、孝一郎の現店主・ピタヲさんはにかにかと笑った。
「もっと来いっつーの。うちより美味いラーメンがあるかってんだ。」
「札幌がどれだけ遠いと思ってるんですか。」
「そりゃそうか。」
ピタヲさんはまた笑った。
「お子さん元気ですか。」
「上の子はもう中学生だよ。」
ピタヲさんは徐に家族写真を見せてきた。見ると、ピタヲさんとその奥さんとともに、ピタヲさんと全く同じ顔をした男の子が大中小3人写っていた。もしかして、と思ってピタヲさんの顔をもう一度見てみると、あの頃と全く変わっていないではないか。なるほど、ピタヲさんの家系は皆この顔で生まれきて、老いもしないということか、世の中不思議なことがあるもんだ。
しばらくしてコウジロウが出てきた。ピタヲさんの作るコウジロウは本当にあたたかくて、あの頃の思い出が次々と蘇ってきて涙がこぼれそうになった。
「うまいだろ。」
「はい、ほんとうに。」
「俺がコウジロウ2杯食ったときのこと覚えてるか」
「もちろんですよ。あれは無茶でしたね。」
「あの時はびっくりさせただろ、ごめんな。でもあのときのきさんはどうにもほっとけなくてな。俺も口下手だから、言葉じゃ伝えらんなかったんだ。」
僕はあの頃の自分に「本当にいい先輩を持ったな」と、そう言いたくなった。
コウジロウは本当に美味しくて、30半ばになっても麺400g、全マシマシを余裕で食べられた。僕は何もかもが満たされた気持ちになって、ピタヲさんに帰りの挨拶をした。さみしいけれど、僕には帰らなければならない家がある。

ピタヲさんは帰り際にこう言った。
「俺は最近思うんだ。コウジロウはあの頃のいろんな思い出を、スープのなかに閉じ込めて今の俺達に届けてくれる。コウジロウは、言っちまえばタイムカプセルなんじゃねぇかな。」
そうなのかもしれない。いや、きっとその通りだ。
「また来ます。」
僕はそう言って孝一郎を出た。
コウジロウのアブラは、相変わらず僕の胃を包みこんでいるようだった。

※完全フィクションです。

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