「が」と「は」。
一年のたかなです。かっこいいと思ったものを書き表そうとしても文章力が全くもって追い付いていないので、どうしたものかと必死に書いているところです。小学生のころから数学ばかり勉強をしていたせいで、文系科目が絶望的に不得意になり、私は中学の成績で国語だけ2を取得、高校でも歴史総合は定期テスト14点、現代文も定期テストは308人中296位を達成。福島県の場所を先週まで真面目に中国地方だと思っていた時期もあった。中学の国語の先生との関係は良好ではあったが、特に措置はなかった。私にとっては、150字を超えたら論文執筆か長文読解の認識である。そのような自分が白ブロほどの長文を執筆するなど、夢にも思わなかった。今回の経験を糧に、少しは文章力を鍛えていこうと思う。しかし全く遺伝はしなかったが、私は母が文系の才能を持っていると踏んでいる。高3の受験期に、妹と母が隣の部屋で揉めており、勉強とネットフリックスの邪魔になると思った私が文句を言いに行った際、母が吐き捨てた言葉。
「海の上に降る雨の名前って知ってる?」
「…知らない」
「誰にも観測されない雨ってあるんだよ。…私の心もそんな気持ち。」
最高にかっこいいと思った。
本題のかっこいいものについてだが、まずかっこいいとは何か、と感じる人は多い。確かにスポーツが得意な人はかっこいい、顔が整っているとかっこいいといわれるが、それは本当に真の「かっこよさ」といえるのか、そうではない。ではどう言い表せばいいのか、一言では無理だろう。なぜなら「かっこいい」は性格でも、服装でも、能力でも、顔でもないからだ。そんな表面上のものではなく、それらを剝がした先にある“姿勢”のようなものだからである。
たとえ話をしよう。
昔聞いた、ある灯台守の話。海辺の断崖に、一人で何十年も立ち続けた男がいた。
彼の仕事は、毎晩灯りを絶やさないこと。たったそれだけの単純な仕事だ。誰にも褒められないし、拍手もない、そんな仕事。しかし暗い海の上、嵐の中の船乗りたちは、その灯りを見る。
「灯火が見えるなら、俺たちは大丈夫だ。」
灯りを灯し続ける、たったそれだけで誰かの恐怖が少し和らぐ。誰に認められるでもなく、ただ誰かに静かに道を教える。他人の暗闇にほんの小さな光を置くその男を見て、人はこう思った。
「ああ、かっこいいな」
と。
だから結局、かっこいいとは何か。それはきっと、自分ではない誰かに憧れや安心、感動などの感情を抱かせるものではないか、と私は思う。言葉や行動に心を動かされたときや、自分の弱さを知り、不完全であるのにそれでも堂々とする姿勢をみたとき、人はかっこいいと思うのだ。そしてきっとそのような心は誰もが持っていて、誰もがかっこよくなれる素質を持っていると、私は思う。私にも経験がある。中学1年生の定期テストのとき、前述の先生が徹夜で作った問題の誤りを指摘した経験。
「先生、この文のここ、「は」じゃなくて「が」じゃないですか?」
あの時のお前、最高にかっこよかったぜ。
1年_場内 薄切りカタカナカタン

